ホタル百科事典/ヘイケボタルの生態と生息環境
ヘイケボタル(Aquatica lateralis Motshulsky)の分布は広く、南西諸島を除く日本、朝鮮半島、中国東北部、東シベリア、サハリン、千島列島まで及びます。配偶行動時の発光パターンは複雑で雌雄間で様々な発光パターンのやり取りを行っています。また、発光はゲンジボタルのように同調することはありませんが、オスが飛びながらメスを探している時に、2つの発光のタイプが認められます。北海道では発光間隔が約1秒、本州以南では約0.5秒で、この間隔は気温に影響されていると言われています。生活史は、ゲンジボタルのそれと基本的に同じです。完全変態を行い、各ステ−ジにおいて生活場所を変えます。ただし、ゲンジボタルの幼虫が里山の小川や山間部の渓流に棲むのに対して、ヘイケボタルの幼虫は、里山の流れのひじょうに穏やかな小川や水田、湿地等に生息しており、山間部の渓流には生息していません。
ヘイケボタルは、ゲンジボタル同様に水際のコケや草の根本に産卵します。産卵数は平均して100個前後で、比較的広範囲に産卵します。孵化までの日数は、平均18日〜22日ですが、有効積算温度で変化し、実験では、27℃で18日前後、20℃では30日前後かかります。孵化した幼虫は、約2.0mmで3週間くらいすると背面に模様がくっきりと表れるようになり、夜になるとよく発光します。
ヘイケボタルの幼虫は4回の脱皮で終齢(5齢)を迎えます。成長速度は速く、個体による差もあまり大きくありません。高水温で過密に飼育した場合は、11月までに多くの幼虫が終齢に達してしまうこともあります。12月頃になると、水底の泥の中に潜り、あまり出てきて活動することはないようです。生活範囲は広くなく、日中は水田の畦に近い稲や草の根本や泥の中に隠れており、夜間はその付近を這い回っています。
上陸期間はゲンジボタルよりも長く、およそ1ヶ月から2ヶ月間続きます。幼虫は水際近くの畦斜面で土まゆを作りますが、草の根本などの地表面にあたかも壺のように土を盛り上げてまゆを作る幼虫やコケの間で周囲の土や草・コケを寄せ集めてまゆを作ります。これは、水田の畦が粘土質の土であるため地中深くに潜ることができず、また適度な水分補給が常になされているからだと考えられます。
ヘイケボタルは、畦の斜表面という不安定な環境において蛹化するため、上陸から羽化までの期間がゲンジボタルに比べて短く、およそ20日前後です。(地温によっては、かなり短く、前蛹期間が約1週間、蛹化から羽化までが約1週間という観察もしました。)成虫は、関東では南房総で5月下旬頃から、千葉県北部では8月上旬頃、東京では6月中旬頃に発生します。ゲンジボタルのようにある限られた範囲に一斉に発生するのではなく、水田の広い範囲にわたってスポット的に発生し、単位面積の発生密度もあまり高くありません。また地域によっては水田ごとに発生時期が異なっていたり、長期間発生する場合もあります。ただし、生息場所が小規模な湿地等である場合は、短い期間にまとまって発生する所もあります。ゲンジボタルは成虫になるまで1年、もしくは3年〜4年かかる場合もありますが、ヘイケボタルは、ほとんどが1年で成虫になります。(人工飼育では4ヶ月で成虫になる場合もあります。)羽化した成虫は、ゲンジボタルに比べて飛翔行動範囲が狭く、オスでも飛び回るよりも草の中でチカチカと光っていることの方が多いです。
ヘイケボタルの幼虫の食べるものは、カワニナや水田に多く見られるタニシやモノアラガイを好んで食べています。しかし、長野県飯綱高原に逆谷地という湿原では、他の生息地と大きな2つの違いが見られます。1つはPHが5.1という強酸性の水質であることと、もう1つは水生の巻き貝が全く生息していないということです。逆谷地という湿原においては、ツリガネムシ等を餌にしているのではないかと考えられています。これは、どのヘイケボタルの幼虫も食べるというわけではなく、これらのヘイケボタルの幼虫は、その生活環境の変化や条件等によって自らの食性を変化させたからであると考えられます。
この他にも死んだオタマジャクシ・ドジョウ・サワガニ・ヤゴ・イトミミズなどを食べた観察報告(1978.群馬・月夜野)もあります。
タニシ(田螺)は、腹足綱 原始紐舌目 タニシ科 Viviparidae に分類される巻貝の総称で、日本にはマルタニシ、オオタニシ、ナガタニシ、ヒメタニシの4種がおり(ナガタニシは琵琶湖だけに生息する固有種)日本全国の水田、用水路、池などに分布しています。分布域は種類によって多少異なり、中でもヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica (Gould, 1859)は、水田、池沼、用水路など比較的浅い中富栄養性水域を主な成育場とする淡水産卵胎生腹足類で、6〜8月にかけて稚貝を生みます。硬度の高い水質では繁殖力が高くなると言われています。タニシ類は、物の表面に着生した藻類などを削り取って食べたり、水底の沈殿物(デトリタス)や水中の懸濁物を鰓で集めて食べるという摂餌特性があります。このため、大きな環境変化があっても生息が可能であると言われています。
モノアラガイ Radix auricularia japonicaは、有肺目 モノアラガイ科 に分類される巻貝の一種で、淀んだ小川やため池、水田、沼や池などのやや富栄養化の進んだ止水、半止水域に生息しています。落ち葉や藻類、死骸などを食べ、雌雄同体で他個体と交尾し、寒天質の袋に入った数個〜数十個の卵を水草や石などに6月頃から産み付けます。卵は2〜3週間で孵化し、2〜3ヶ月程で成熟します。
ヘイケボタルは、約100万年前の大氷河期の終わり頃から、除々に日本列島全体に分布を拡げていったものと考えられており、ゲンジボタル同様、もともと陸生であったものがある時期に幼虫が水中へと生活場所を変化させたと考えられていますが、その時期は定かではありません。日本列島における水稲耕作の起源は、弥生時代(紀元前10世紀頃)に始まるとされていますが、水生への変化と水田の起源との関連性を見いだすことはできません。ただ、北海道におけるヘイケボタルの分布は、釧路湿原などの湿地が中心で、稲作は江戸時代末期から始まり、明治時代に徐々に拡大していったことを考えると、水生への変化時は湿地(湿原)に対して生活場所を求めたと言えます。しかし、湿地は、池沼に土砂・泥炭などが堆積してできたもので、いずれは草原や森林へと遷移してしまいます。つまり水生へと変化したヘイケボタルにとっては都合の悪い環境です。その後、湿地が水田へと耕作された時に、ヘイケボタルも水田環境に適応するようになっていったと考えられます。
現在でも、先に述べた北海道釧路湿原、長野県飯綱高原、福島・新潟・群馬の3県にまたがる尾瀬など、湿地(湿原)にもヘイケボタルが生息している所が多くあります。また、もともと水田であった所が放棄・放置されて湿地になった所にも生息しています。
湿地(湿原)に生息しているヘイケボタルの発生は、水田の場合と比較すると期間も数もある程度まとまっています。
ヘイケボタルは、地方によっては「コメボタル」、「ヌカボタル」と呼ばれているように、水田に多く生息しています。左の写真のような谷戸田に数多く見ることができますが、これらの水田は、蓄積性の少ない低毒性の農薬を使用しているか、もしくは、完全な有機栽培が行われている所です。極めて毒性の強い水田用殺虫剤が散布されている所では、ヘイケボタルはおろか、ドジョウやタニシ、ザリガニも生息していません。
ヘイケボタルは、休耕田よりも耕作田に多く発生します。下図は、水田の耕作管理とヘイケボタルの生活史を表した図です。成虫は、水辺の苔や草の根元に産卵し、約1ヶ月で孵化します。孵化した幼虫は、水中に入りタニシやモノアラガイを餌として食べます。しかしながら、9月になると水田は稲刈りが始まり、その頃の水田にはもう水が抜かれています。水は翌年の代かきの時期までほとんどありません。幼虫は水中で生活するにも関わらず、その大部分に水がないのです。では、水のない期間、ヘイケボタルの幼虫は水田のどこにいるのでしょうか。
図1 水田の耕作管理とヘイケボタルの一生
以下のような報告があります。実験的にヘイケボタルの幼虫200個体をモデル水田に放流し、冬の2ヶ月間水を抜いて翌年の発生数を調べたところ約30パーセントが羽化したそうです。また、湿った砂の中に幼虫100匹を餌を与えずに置いた実験では、3ヶ月後77匹の幼虫が生き残っていたそうです。これらのことから、ヘイケボタルの幼虫は、水田での水のない期間、湿った土の中に潜って休止するものと推測できます。ただし、完全に乾田化してしまう水田には生息していません。ある程度湿っていなければ死んでしまいます。また多くの水田には、水田のすぐ脇に灌漑用の水路が設けられており、特に谷戸田においては、上部の湧き水を利用しているためにその水路は年中枯れることはありませんが、流れの早い水路には幼虫は生息していません。
次に、耕作スケジュールとの関係を見てみます。(図1)まず、稲作における代かきは、ヤゴやザリガニなどヘイケボタルの幼虫やその餌となる貝の天敵を一気に減少させる働きをしています。ヘイケボタルの幼虫は、体長1センチと小さく、また柔らかいので代かきによる影響をあまり受けないと思われます。また、水田管理のために畦道が改修されることにより、幼虫が上陸して蛹になるときに都合の良い柔らかい場所が提供されます。稲が生育して水田一面を覆うようになると、やはり、幼虫や餌の貝の天敵である鳥類から身を守ることができます。また、施肥は水田の藻類の増殖を促進し、それを餌とする貝類も増え、幼虫の餌の供給に寄与しています。次に農薬の影響ですが、極めて毒性の強いものでない限り、農薬の一時的な散布ではヘイケボタルの幼虫や餌となるタニシ、モノアラガイなどは壊滅的な打撃を受けることはないようです。
ヘイケボタルは、この耕作スケジュールに合わせて上手く生活しており、同じ地域でも発生時期が異なるのは、田植え等のスケジュールが田圃によって違っていることに起因していると考えられます。
以上のように耕作中の水田は、ヘイケボタルの生存にとって有利な環境であり、またヘイケボタルもこの耕作水田という環境に順応していく課程で、産卵数が少なく、しかも幼虫は強健で環境適応性に優れるようになったと考えられます。しかしながら、機械化し農薬を多用した近代的農法が行われている水田では、ヘイケボタルは生息できません。水田稲作において慣行農法(上図で示したような、代かき、中干しなど)が行われるようになったのは、明治時代以降になってからで、それ以前は不耕起栽培と呼ばれる農法が主流でした。
不耕起栽培が行われていた頃の水田には、現在よりも多くのヘイケボタルが生息していたと思われます。
一方休耕田では、休耕の1年目では昨年と同じくらいの成虫が発生しますが、その後年を追うごとに成虫の発生数は少なくなっていくという事実が報告されています。
ヘイケボタルの幼虫は、水田に生息している場合、冬期の水の少なくなる期間は、休眠ではなく休止すると考えられます。休眠は同じ種内のそれぞれの個体が同じ発育段階で発育を停止もしくは抑制する状態で、遺伝的にプログラムされています。日長と温度等の要因が誘引し、休眠が解除されるのは、同じ種の中で一致して発育に適切とされる環境条件になったとき、種内の統一された基準を満たしたときです。年間を通じて水のある湿地に生息するヘイケボタルは、冬期でも活動していることから、水田で水の少なくなる冬期間は、休眠ではなく休止であると言えます。休止は、それぞれの個体が生育に好ましい状況になったとき、それぞれのタイミングですぐに成長を始めます。よって同じ地区でも水田1反ごとに水を引く時間に差があったり、1反の中でも場所によって水温に差がある(入水口より遠い場所は、日光で早く暖まりやすい)場合などは、休止から目覚めるタイミングにもズレが生じ、場所によってその後の成長に大きく差が出てしまい、成虫の発生時期にもばらつきを与えてしまいます。ヘイケボタル幼虫の成長速度が速いのは、こうした水田の水管理と休止による成長のばらつきをなるべく最小限に抑えるためと考えられます。数ヶ月にも及ぶ水の少ない低温環境下での休止に備え、秋までの水温が高く、モノアラガイ等も豊富に繁殖し安定した環境の時期に、速く成長しておく方が上陸と羽化の時期を揃えることができます。しかし、成長はモノアラガイ等を食べる量で決定されます。全ての幼虫が多くのモノアラガイを食べて順調に成長することはありません。水田の広い範囲にわたってスポット的に発生したり、単位面積の発生密度もあまり高くないのは、このためと考えられます。
図2 ヘイケボタルの生息分布図(データ不足)
上の図は、東京都内におけるヘイケボタルの生息分布を表していますが、データが不足しているということもありますが、ゲンジボタルのそれと比べてひじょうに生息地が少ない状況になっています。これは、東京から谷戸田や水田がなくなっていることに比例しています。
グラフ1.東京都の水田耕作面積の推移
※資料:「東京農林水産統計年報」(各年版)、関東農政局東京統計情報事務所編集、東京農林統計協会
上のグラフは東京都の水田耕作面積の推移を表していますが、東京の水田は、1970年には2,380ヘクタールありましたが、2000年の調査では、242ヘクタールにまで減少しております。30年間で約10分の1になっています。この中でさらに減農薬栽培を行うなどヘイケボタルの生息に適する水田はごく僅かになってしまっています。
東京のある谷戸田では、ゲンジボタルとヘイケボタルが生息していますが、残念ながら休耕田になっています。谷戸の多様な生態系の構築には、水田も重要な役割も担っています。元来、谷戸を流れる湧水は冷たく稲作には適していません。農家は溜池をつくり水路に堰をつくり水温を上げて水田に水を流しました。それでも平地の水田に比べて水温が低く、このことが雑草の繁殖を抑える役割を果たし、低農薬で栽培が可能になり、こうしたことが、谷戸特有の多様な生態系を形成するのに重要な役割を果たしていました。休耕田になってしまえば、田の草原化・乾燥化が進み、水温は低いままになってしまいます。水田における生物の記録種数に関する事例では昆虫やクモ類、節足動物門では450種、魚類24種、鳥類101種、植物174種という報告(日鷹1998年)がありますが、これら様々な動植物は姿を消してしまいます。
東京では、かつて水田に生息していたヘイケボタルは、休耕田や放棄水田に生息場を移し、さらには湿地へと移動しています。湿地はカサスゲなどが繁茂しており、やがては陸地化する可能性があります。このままでは、ゲンジボタルよりも早くヘイケボタルは絶滅してしまうかも知れません。
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